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実に1年振りとなるMediine Bagのライヴだった。
手作り感覚あふれる新開地と帝塚山のふたつの音楽祭、及びMr.Kelly'sとRUGTIMEでのライヴだった。帝塚山音楽祭を一週間後に控えたRUGTIMEでのリハーサルの時に池田正仁さんが現れたのだ。彼こそは帝塚山音楽祭の発足の頃からの中心人物であるばかりか、俺たちを駆け出しの頃から強力にサポートしていただいた、あの伝説のジャズ喫茶"DUKE"のマスターに他ならないのだ。

70年代、今ほどのにぎわいを見せていなかった鰻谷に既に老舗といえるDUKEは風格を持った たたずまいでシーンの中心として君臨していた。数多くの関西出身の優れたミュージシャンを輩出してきたDUKEは伝統を感じさせるほどで、羨望のまなざしで当時の地元ミュージシャンにとっては憧れの場所だったとも言えた。
東京からのトップミュージシャンらの演奏の合間に地元ミュージシャンが曜日ごとにレギュラーで出演していたわけだが、その中で建ちゃん(中村建治)とよく一緒に演奏していた御薬袋さんが俺に声をかけてくれたのだ。この時の"みなえかずお"が後のMedicine Bagになった事は既にご存知のことと思う。

時を同じくしてNANIWA EXPRESSも金曜のレギュラーを任されることになり、まさに俺たちはDUKEを根城にして活動するようになった。根城とはよく言ったもので、演奏のみならず、リハーサルから食事にいたるまで、ほとんど住み込んでいたと言っても過言ではなかった。
宵の口は\500のチャージを\400バックしてもらいながら食いつないでいたのだ。食事はピラフや焼きそばを作ってもらった。何を食っても何を飲んでも一品\200だったのは当時の俺たちにはありがたかった。本当にたくさんのミュージシャンが出入りしていた。当時はまだメンバーでなかったリキ(東原力哉)もレギュラードラマーとして腰まで伸びたストレートヘアーをなびかせて登場していた。

カウンターで常に俺たちの演奏を聴いていたマスターは時として助言をくれた。これは音楽的なことに限らなかった。今から思うに彼は当時の俺たちに対して、一流がどういうものであるのかを伝えたかったのではないだろうか。具体的に何の話を思い出すというわけではないが、DUKEのカウンターで過ごした時間が今の自分のベーシックを作っているような気がしてしかたがない。そう言えば、NANIWAの当時のドラマー、鎌田清が新たな活動の拠点を求めて東京へ旅立つ事を決めた時、マスターは迷いなくつぶやいていらした。「じゃあ、後はリキしかいないな。」

今から想えばDUKEは都会の中の隙間だったのだ。そんな隙間があったからこそ、志しを持った若造が集まる事も出来、また馬鹿騒ぎする事も出来たのだ。NANIWAのデビューが決まるのと時を同じくしてDUKEはミナミでの灯を消した。

それでも俺たちの中に今でもDUKEの空間は生き続けている。
久しぶりにマスターのお顔を拝見すると、新たな元気が沸いてくるのだ。






1990年よりKTVで6年半に渡ってオンエアーされていた"夢の乱入者"は俺にとっても思い出深い番組だった。この番組を通じて俺を知る事になった方々も多いのではないだろうか。
実際に現場で番組を作っていてもこの番組ほどミュージシャンに重きを置いて制作してくれていた番組は過去に無かったと言ってもいいだろう。

普通の音楽番組と言ったら、それこそカメラ用のリハーサルがおびただしく多くて、 本番の頃にはすっかり鮮度などは失われてしまっているケースがほとんどだったのだ。ところがこの番組に至っては、リハーサルからが本番そのものだった。黄金のホストバンド、"夢乱バンド"が毎回迎えるゲストとの打ち合わせは文字通りその場限りなのだ。そのドキュメントを余す事無く伝えていたのがこの番組だったような気がする。元来ミュージシャンは現場主義なのだが、カメラ、音響、照明など全てのスタッフがこの超現場主義を貫いてくれた事こそがこの番組に類い稀なるスリルを与えていたと言っても過言では ないだろう。

今年で第6回を迎える"ブルース伊賀の乱"は地元のボランティアと上野市が協力して築き上げてきた素晴らしき手作りイベントだ。夢乱信者も多い実行委員会のたっての願いで俺がプロデュースする事になった今年は夢乱のリユニオンと言う事になったのだ。実に依頼は去年、石田長生がプロデュースした直後から受けていた。

実際には夏ごろから動き出したのだが、まずは"夢乱バンド"のメンバーのスケジュー ルをチェックするのと同時にKTVの担当者に夢乱の名称の使用許可を得るところからこのプロジェクトはスタートした。担当者レベルでは問題なかったものの、やはりオーソライズするためにはトップも説得すべきだろう、と言うことで、実行委員会から社長宛に墨書き直筆での直訴状まで作ったのは彼ららしいエピソードだった。

限られた予算の中から、選りすぐりのゲストも決定し、音響、照明も最高のスタッフ をそろえて、いざ伊賀上野へ乗り込んだのだった。舞台監督無しという無謀をせざるを得なかったので、俺も朝一で会場入りする事になった。舞台美術の予算も無かったので、 まず会場にありったけのパンチや黒布(いわゆる大黒ってやつね)で舞台を敷き詰めた。 楽器はなるべく中央にセットして、余ったスペースに会場の会議室に置てある、かなりクラッシーな、カウチやテーブルなどを設置する事にした。誰かの家のいるような雰囲気を作りたかったのだった。

メンバーの入りを待つ間、俺は楽屋でまだ終わっていなかったかおりちゃんの出し物のアレンジをするのだった。なにしろコブクロKANKAWA122のツアーの合間である。さすがに時間を捻出するのは不可能に近かった。いつもの事だが滑り込みでなんとかクリア出来そうなぐあいになりつつあった。

午後3時にまず夢乱バンドの面々が会場入りした。4人がそろうのは実に久し振りではあったが、サウンドチェックで夢乱のテーマソングであるベンチャーズの"Walk don't Run"が始まると、不思議に時間のギャップは取り払われてしまった。おびただしい数のカメラがない事を除いてはKTVのスタジオと何ら変わる事の無い雰囲気でサウンドチェックは進んだ。

夕刻になって坂田さんと石やんも会場入りし、打ち合わせもそこそこに既に舞台はヒートアップしていくのだった。会場で簡単に乾杯を済ませて、我々は前夜祭会場である、 伊賀上野名物プラサードへ向かった。
一夜限りの復活祭に向けてそれぞれのプロフェッションを爆発すべく名人達は気炎を 上げるのだった。

前日のリハがあまりにも順調だったので当日の入りは大幅に遅らせて実行委員長である吉増氏の経営する創業二百有余年の"田楽座わかや"で昼食をとることにした。ちょうどこの日に入る事になっていたかおりちゃんも到着する時間だったので、彼女もここに合流する事になった。俺は伊賀上野に着たら必ずここには立ち寄る。田楽はもとよりここの豆腐は絶品だ。以前にも書いたが俺はここのおからが大好物なのである。こんなにシルキーなおからは他で食べた事が無い。このような歴史に裏付けられたホスピタリティーが自然にある所がこの土地の魅力でもあるわけだ。
ざる豆腐はふくよかなシャルドネで、味噌の香ばしい田楽はメルローで流し込んだ頃には既に気分は打ち上げモードだったのだ。

とはいえリハをしなければ本番を迎えれないのでしぶしぶ会場に戻る事にした。かおりちゃんには彼女がメインでの3曲以外にアンコールで"Imagine"を唄ってもらう事にした。
ジョンの詩を基に石やんが日本語の詩を付けたものだったが、石やんの歌唱指導のも と、彼女がどんどん唄を自分のものにして行く様は素晴らしかった。元来吸収力の強いシンガーだが、改めて感心させられた。

大きなトラブルも無く、本番を迎えた。前半である石やんと香津美さんのデュオのコーナーは俺たちは舞台に設営されたカウチに腰掛けて楽しむ事が出来た。クーラーに冷やされたワインを口元に運びながら贅沢な時間を過ごさせてもらった。出来うればもう数曲聴いていたかったがそうもいかず後半戦に突入する事にした。坂田さんの民謡、かおりちゃんのボサノバなど盛りだくさんのコンサートは、それでもあっという間に終わってしまった。

地元のボランティアと上野市文化都市協会という文字通り官民一体となって続けられてきたこのイベントが今後も継続していく事を願いたい。こう言うイベントはまず実行委員の熱意が無ければ実現しないものではあるが、熱意だけクリアできない様々な問題を自治体がバックアップすると言う事はとても大切な事だと思った。税金の有効利用に関してようやく世間でも注目を集め出したが、上野市での小さな成功の実例が全国に静かに広がっていく事を切に願っているのは俺だけではないのだ。


 





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